特急「やくも」と特急「はくと」の初乗車 [鐡道旅行]
台風が山陰地方を直撃しそうだった先月はじめ。米子で行われた学会へ参加する折、初めて伯備線に乗車しました。
飛行機での移動を諦めて陸路での移動に切り替える人もいる中、自分は当初から「サンライズ出雲」で移動しようと目論んでいたものの、夜仕事が終わらず東京駅へ向かうことはできず、更に台風の為、夜行列車が運休。夜行列車での移動は夢となりました。
翌朝、東京から「のぞみ」乗車。パソコンに電源を繋いで資料を作成しながら、車内で朝食。
東京駅で、横浜の駅弁を調達。
初めての「やくも」。今度は早めの昼食。
箱や箸の入れ物が大変凝っているお弁当。
お品書きを見ながら、窓の向こうには、四国方面の特急が併走中でした。
再び資料を作りながらの道中。外の景色を見る暇がほとんどないまま、日本海側へ。
途中、遠い山陰地方で初めて見たロクヨンセン。 関東からはるばる。懐かしい感じがしました。
山陰地方を訪れたのは、学生時代に青春18切符で山陰本線の乗りつぶしをしたとき以来。仕事で再び来るとは夢にも思わなかったです。
米子では2泊3日。自らプレゼンしつつ、プレゼンを聞きつつ、情報収集しつつ。。。みっちり仕事。
帰京前日、稲田屋という居酒屋で行われた懇親会。
同じ分野のエンジニアや先生方、学生達と友好を深めることができました。
懇親会会場からホテルへ戻る途中に見かけた博物館。
入口のドア越しに中を見ると、山陰本線に関する催しが行われていたようでした。しかし、昼間はびっちり仕事があったため、結局行けず。。。
帰りは、米子から鳥取まで山陰本線に乗り、遠回り分で帰京。自腹で、特急「はくと」に乗り、智頭急行経由で京都へ出ました。
帰りの道中は、資料作成の必要はないので、外の景色をゆっくり見て帰りました。しかし、それほど写真は撮らず。ただ、智頭急行線の途上、列車交換をした駅が奇抜な雰囲気だったので、デッキに出て撮影しました。
山の中でもネットに繋がったので調べてみると、つい最近改修をした「恋山形」駅とのこと。
「日本に4つ 恋の駅」らしいです。
目的地への道中は振り子三昧の旅でした。
「にほんブログ村」のブログランキングへ参加中です。
「日本帝國鐵道」のホームページです。
米国首都路面電車博物館への訪問 [鐡道旅行]
昨年11月から今年1月まで、米国ワシントン近郊への断続的な長期出張の間、たまたま自由に行動できたある休日、滞在先の近くにある鉄道博物館に出かけてきました。
ワシントン中心から車で1時間程離れたところにある首都路面電車博物館(National Capital Trolley Museum)です。
この博物館では、かつて米国の首都ワシントンを走っていた路面電車や、他の地域や国で走行してた路面電車が展示されています。NPO法人が管理する博物館です。
NPO法人による管理であることと、ボランティアが来館者の対応をするような博物館であるため、土曜日と日曜日の午後しか開館していません。あの有名な旅行ガイド「地球の歩き方」にも、この博物館は掲載されていませんでした。
ある晴れた休日、ようやく時間を見つけて、この路面電車博物館に訪問してきました。滞在先のワシントン近郊から30分ほどの距離にあるにも関わらず、主要道路からの入り口が非常に判りづらかった為、1.5倍掛かって到着しました。
敷地内には、展示物を収めた建物の他、広い敷地には約1マイルほどの線路が敷かれており、旧型の路面電車が交互に来館者を載せて走っています。
入館すると早速、出発間際の電車に乗ることになりました。
電車に乗車すると、建物に併設された車庫から延びる線路が右手に見えました。館内の線路が本線に合流しているのが外からもわかります。
一方、車内は自分を除いて全員家族連れ。日本人は自分を除いて乗車しておらず、子供たちの珍しそうな視線を感じながら、森の中を走る電車の中から風景を眺めていました。
途中の折り返し地点は、ループ線になっており、ここで電車は停車。
運転士さんが椅子を離れ、乗車する電車と線路の紹介を始めました。
この線路は、敷地を分割するように建設された新しい高速道路によって、約半分に短縮されてしまったそうです。グーグルアースで見ると、古い線路の跡を見ることができます。
(上記写真中、赤線は現在の線路、青線は以前の線路。高速道路によって、線路が途切れているのが判ります。)
折り返して、次に発車を待っていたオランダの電車も含め、当日は2種類の電車に乗車することができました。
建物の中には、ワシントンを走っていた路面電車を紹介する図や模型、映像などが展示されていました。
展示されている地図を見ると、線路跡が今や自動車道路になっていることが判ります。ワシントン大統領の住まいのあったマウント・バーノンまで、 川沿いに線路が敷かれていたことも初めて知りました。
さらに館内に展示されていた模型。
ワシントン中心地では、空中に架線を引くことが困難であったため、地中に架線を埋めて、集電していたとのこと。その遺構の一部も展示されていました。
また、時間を決めて入館を制限している建物、これは「車庫」を兼ねた展示場だったのですが、この中には、除雪車や貨物車、今にも崩れそうな古い形の電車などが展示されていました。
米国ボルチモアの鉄道博物館訪問 [鐡道旅行]
米国出張中、とある休日にボルチモアにある「ボルチモア&オハイオ鉄道博物館」を訪問してきました。
出張先はメリーランド州グリーンベルト。ワシントンDCから地下鉄で30分くらいのところに位置するこのグリーンベルトからボルチモア市内へは、近隣の駅から、Amtrakと線路を共有する公営の通勤列車(MARK)とボルチモア市内のライトレールを乗り継いで移動しました。
訪問した博物館は、米国最古の鉄道に使われた施設がそのまま鉄道博物館として活用されています。入館すると、まずは昔使われていた扇形庫(Roundhouse)の中に並んだ蒸気機関車達に圧倒。
建築限界試験車(通称:花魁列車)も保存されていました。
最も感動したのは、通称BigBoyと呼ばれる巨大上記機関車よりも巨大なボイラを持ったチェサピーク&オハイオ鉄道のAlleghenyという機関車。併設されている別の機関庫の中に置かれているこの蒸気機関車は、機関車というより、もはや鋼鉄製配管が全面四方に張り巡らされた巨大なプラントのような風貌で、運転台から先頭まで、日本の車両全長分はあるのではないかと思うくらいの長さ。
ただただ、圧倒されてしまいました。
鉄道模型のレイアウトは屋外と旧型客車の室内の2式展示されており、屋外はOゲージ、室内はHOゲージの大レイアウト上で、列車が自動運転中。
列車の中で、精密な鉄道模型の走行に見とれていた最中、たまたまレイアウト上で貨物列車がたまたま脱線したとき、係員の人が修復に来ました。
係の方にお話をお聞きしたところ、全面アクリル板で囲まれたこのレイアウトは24時間空調管理されているとのこと。また、裏にある制御装置(コンピュータ)によって、ひとつの本線上を複数の列車が走行可能となっており、信号も自動的に点滅させているとのことでした。
列車の中で、鉄道模型の列車を自動運転。しかも、完全空調。素晴らしいと思いました。ただ、線路の清掃は、アルコールではなく、紙やすりで行っているとのことでした。
この他、旧式のディーゼル機関車や展望客車、さらに整備が間に合わないのか、それとも展示スペースがないのか、野外に放置されたままの機関車達が置かれており、ボルチモアの都心に近い場所にありながらも、非常に密度の濃い博物館でした。
DF50との初めての対面 [鐡道旅行]
先週末、3日間の松山での仕事の帰り、乗車した特急を、ちょうど1時間だけ途中下車して、「四国鉄道文化館」を見学しました。そこで、初めてDF50と対面しました。
途中下車した伊予西条駅のある西条市は、新幹線の生みの親の一人である 十河信二 元国鉄総裁の故郷でもあり、この鉄道文化館に併設された記念館も見学しました。
閉館間際の記念館で、見学者は自分だけ。次の特急が到着するまでの1時間の見学時間が、異様に短く感じました。
常磐線を通過する北斗星色 [鐡道旅行]
買い物のついでに子供たちと一緒に、近隣の常磐線の最寄駅で列車を見てきました。
線路の向こうを真剣に見つめる子供たち。偶然、北斗星塗装のEF510が牽引する貨物列車が通過していきました。
遅ればせながら、今年9月mixiへ、先週にはfacebookへ登録しました。
同機は別のところにあったのですが、このようなSNSへ登録してみて初めて、小学校、中学、高校、大学の同期、同級生が自分の知らない世界で活躍したり、発言したりしているのを垣間見て、だいぶ刺激になりました。入社10年目の節目の秋。
日本国の総理大臣は、TPP交渉参加を表明するためにAPECへ出発。
しかし、戦いはこれから、、、とのブログです。→http://wondrousjapanforever.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-39f4.html
関東鉄道とつくばエクスプレスの車両基地にて [鐡道旅行]
約10年前の就職氷河期の最中、都内の学校の機械科を出て、茨城県南地方に就職して以来初めて、茨城県にある車両基地の一般公開に出かけてきました。
今回、家族も連れて出かけてきたのは、関東鉄道常総線の水海道車両基地です。
また、水海道車両基地への訪問の前に先立ち、つくばエクスプレスの守谷車両基地も合わせて見学してきました。結果的に、茨城県に同居する二つの鉄道の舞台裏を、同日同時間帯に公開された車両基地の一般公開を通じて垣間見ることができました。
二つの車両基地で見学して自宅に帰ってきて思ったのは、「守谷」よりも「水海道」の方が、より鉄道を身近に感じ、楽しく過ごすことができたということ。
自分が、たまたま昔からメカメカしく機械チックなものに憧れて機械科を出た身であるが故もありますが、連れて行った二人の子供も、同じような感想でした。
かたや「力」の流れがわかるもの。一方は、「力」の流れがわからないもの。言い換えれば、 力の流れが見えて機構がわかるもの。そして、ブラックボックス化されていて判らないもの。
判りやすい方が面白い、ただそれだけなのかもしれませんが、壊れたら内部を分解して損傷個所を突き詰め、修理なり交換できる方が、判らないまま基盤ごと交換するシステムよりも、自分には性に合います。。。
ただ、どちらの車両基地の方々も、説明や質問に熱心に対応されていました。一般公開とはいえども仕事に対する熱意を感じました。
守谷の車両基地では、3年おきに交換するという電車の車輪を間近に見ることができました。快速や区間快速は一日に約1100km、各駅停車は約800km走行するため、車輪のフランジの損耗も両者で違いが生じるとの説明には、思わず納得してしまいました。
「日本が国家主権を語るのは50年早い、アメリカの属国でいろ」という議員(※)が所属する民主党・現政府 (※大分県選出) APEC首脳会議まで あと 数日。
おそらく過去最大規模となるTPP参加反対デモは明日。
→youtubeへ 「TPP:我々は何を失おうとしているのか」 外部リンク
【東京都千代田区】 11.4 TPP絶対阻止!国会大包囲!国民行動(11/4)
日時・内容
平成23年11月4日(金)
12時00分 準備 第二議員会館前
13時00分 国会大包囲!国民行動 第二議員会館前
国会周辺・議員会館前・首相官邸前等での抗議行動(~15時00分)
主催: 頑張れ日本!全国行動委員会 草莽全国地方議員の会 チャンネル桜ニ千人委員会有志の会
http://www.ch-sakura.jp/events.html
総武線神田川橋梁 [鐡道旅行]
明治時代の開通以来、ずっと両国駅止まりだった総武本線を都心へ延伸すべく、関東大震災の復興計画と合わせて、両国駅から秋葉原を経て御茶ノ水駅へ高架橋が建設されました。その際、隅田川や神田川を跨ぐために施工されたのが、「隅田川橋梁」と「神田川橋梁」です。
当時の鉄道省が設計し横河橋梁(今の横河ブリッジ)が施工し、完成は昭和7年(1932年)3月。同年同月には、ちょうど満州国が建国されました。
中学や高校の教科書でならう昭和一桁の時代は、自虐的な暗いイメージで記されて、逆に誇りを持ちえるような同時期に作られた技術については、全く紹介されていないように思えます。例えば、トンネルについて言えば、昭和6年の清水トンネル、昭和8年の丹那トンネルなど。
この神田川橋梁の設計の中心人物は、田中豊という土木の世界では大変な功績を残された方です。総武線だけでなく、東武鉄道の隅田川橋梁も手がけた田中先生の鉄橋を、たくさんの人を乗せたステンレスの通勤型電車が行き交っています。
過去のブログ(2011.8.25)で、日本の直面する3つの危機についてご紹介しました。
(1) 人権擁護法案
(2) 外国人参政権
(3) TPP:環太平洋戦略的経済連携協定の参加
以上のうち、現政府与党・民主党は、今年中に(3)のかたをつけた後、総選挙までに(1)と(2)を手掛けると思われます。
民主党が選挙で政権与党に選ばれた数年前、当時の争点の中で、ほとんどマスゴミが取り上げることのなかった諸政策が、どさくさに紛れて決められていきます。今回のTPPも然り。わかりやすいくらいの売国振りです・・・。
今後数週間、TPPの推進派の交渉参加既成事実化の報道(ミスリード)や、今更ながらのTPPの本質をつくような報道(アリバイ作り:あの時当新聞は、TPPに反対してました、とさ、、、的なもの)が活発になると思います。
反対のデモに参加するなり、ネットで拡散するなり、職場の昼飯時に紹介するなり、親戚縁者にわかりやすく伝えるなり、相変わらず地道に反対運動を行っていくような気がします。
【【東京都千代田区】 11.4 TPP絶対阻止!国会大包囲!国民行動(11/4)】
日時・内容
平成23年11月4日(金) 12時00分 準備 第二議員会館前
13時00分 国会大包囲!国民行動 第二議員会館前
国会周辺・議員会館前・首相官邸前等での抗議行動(~15時00分)
主催: 頑張れ日本!全国行動委員会 草莽全国地方議員の会 チャンネル桜ニ千人委員会有志の会
http://www.ch-sakura.jp/events.html
先日運転会を見学させていただいた「下館レイル倶楽部」さんにアクセスすることを最初のきっかけとして、時代の流れ(?)に追いつく感じで、今回mixiを立ち上げました。
下館駅は、茨城県県西地区に位置し、JR水戸線や関東鉄道常総線、蒸気機関車が走る真岡鉄道の東西南北の結節点となる交通の要衝のはず(?)なのですが、今や東西を走る国道50号と南北を走る294号線の交差点に過ぎないといっても過言ではないほど、公共交通機関の影が薄い街になっています。例えば、駅前から発着する公共交通のバスが一本もない有様です。
当レイル倶楽部さんは、モータリゼーションの進む北関東方面、茨城方面の鉄道について紹介されています。
何もないから、作るしかなかった。 [鐡道旅行]
先週の休日、我が子二人を連れて、鉄道博物館へ出掛けてきました。今年小学生になった長男には、今後一人で移動できるように、自ら切符を買わせながら、つくばエクスプレスと武蔵野線、京浜東北線を乗り継いで出掛けました。
そもそも、昨年の秋、仕事の夜勤シフトの合間の空いた平日に初めて鉄道博物館を訪れた時、1年間入館無料の特典のある「Teppa倶楽部」に勢いで入会しておきながら、以降一度も訪問することがなかった私に対し、入会費の元を取るようにと妻が催促をしたのが、今回の「お出かけ」のきっかけだったのですが、改めて子供を連れての再訪となりました。
結果的に、我が子を連れての初めての鉄道博物館の見学は、充実したものになりました。
自分が幼稚園に通っていた30数年前、遠足で出掛けた御茶ノ水の交通博物館を思い出しながら、展示物を見て投げかけてくる子供の質問に答えたり、自分が子供の頃に同じように間近にみた「清水トンネル」の立体模型を一緒に見たり、ミニ列車に並んで乗っているうちに、閉館間際まで滞在することになりました。
200系の床下にもぐり、ボディマウント構造やアプト式機関車の歯車を見せながら、その目的を考えさせたり、鉄道の動力源について学ばせるスペースで手を動かしたり、など、良い刺激になったのではないかと思います。
印象的だったのは、特別展示の中にあった有人改札口のセットを見せた時、自分が子供の頃に当たり前だったシステムが、今の子供にとっては当たり前ではないことを思い知らされた瞬間でした。
風呂桶のような箱が、駅員の人が切符を確認するスペースであることはすぐに判ったものの、切符をはさみで切っていたこと、はさみの形が駅によって異なっていたことは、すぐに判らなかったようで、昔の切符やはさみの形の実物を見せて判ってもらいました。
自分が子供だった頃、遠く未来に思えた21世紀は既に突入から10年が経過したものの、自分にとって、その未来世界は、昔描いていたほどの世界にはなっていないと思うことが多かったのですが、自動改札機や非接触型のICカードによる決裁が当たり前となった光景と自分の子供のふとした言動に、未来社会が何時の間にか訪れていたことを改めて思いました。
その特別展示の名は、「時間旅行展」
サブタイトルには、「何もないから、作るしかなかった。」とあります。
この巨大なポスターとキャッチコピーを見た時、思わず歩みを止めてしまいました。
・・・何もないから、作るしかなかった。・・・
天災や人災で傷つく今の「日本」を、まさに勇気づけていると思いました。
出掛ける前、そういえば、妻が近所の図書館から、面白そうな子供向けの本を、子供と一緒に借りてきていました。
「世界にはばたく 日本力」
資源のない国で生きていくためには、技術を磨かなければ。改めて思いました。
日本の宇宙産業は、1990年の「日米衛星調達合意」によって、致命的な打撃を受けました。この条約の締結により、NHKの放送衛星(BS)も気象衛星「ひまわり」も、通信衛星(スカパーJSAT)も、全て海外調達品となりました。日本の製造業はもの(衛星)を作る機会を失い、技術蓄積の場の多くが失われ、政府調達の衛星のみで生き延びつつも、東芝の宇宙部門はNECに吸収されるまで需要は落ち込みました。
当時高校生だった自分も含め、多くの人々は、その条約の真意を知らないまま、交渉は進められていたようです。(「日米合意 衛星」 で→ググる)
米国の意図は、自動車や半導体のように自国の産業を脅かすほどの技術を持つようになった日本において、徐々に発展しつつあった宇宙産業の芽つぶすこと。
現在、同じように米国とTPPの交渉が進められています。そして、今回、TPPが締結されれば、技術力を持つ中小企業が潰され、農業も潰されます。工場の海外移転が本格化し、食料の輸入化が促進され自給率は下がり、調達コストが下がる企業の経営側は潤いますが、潤うのは一部の人々だけで、多くの人は職と食を失いかねない自体になるかもしれません。
マスコミはその真意を隠し通そうとしています。本当に困るのは、これから大人になる子供達です。
「あの時、なんで反対してくれなかったの!!」と言われない為に、本ブログでもTPPについて紹介しました。(関連ブログ→新世紀のビックブラザーへ)
興味を持たれた方がおりましたら、ぜひ水平展開をお願いいたします。
以下、某掲示板抜粋です。
■TPPで設置される24の作業部会 (農業問題は一部)
1 首席交渉官協議 既得権排除でCNN、FOX等が日本の地上デジタルチャンネルに参入。テレビ朝日、TBS等は放送免許剥奪or平均年収も500万円へ激減へ。
2 市場アクセス(工業) ←大部分の日本国民の平均年収低下(SONY、トヨタ、全ての中小企業等)
3 市場アクセス(繊維・衣料品)
4 市場アクセス(農業) ←この農業以外に23種類も日本に大きく影響
5 原産地規則
6 貿易円滑化
7 SPS(検疫、及びそれに付随する措置) ←ポストハーベスト入りの食品規制できない
8 TBT(貿易上の技術的障害)
9 貿易保護 ←狂牛病輸入を断れなくなる
10 政府調達
11 知的財産権 ←弁理士の年収低下へ。ジェネリック医薬品の価格高騰→癌、糖尿病の薬を買えずに死ぬ日本人多発へ。盲腸の手術が50万円に。
12 競争政策 ←弁護士、公認会計士、司法書士、行政書士等の年収低下へ、日本人医師も仕事を外人に奪われる。外国人医師に診察される日本人急増
13 サービス(クロスボーダー)
14 サービス(電気通信) ←NTT、NEC、富士通、東電等の電力会社等の平均年収300万円時代へ
15 サービス(一時入国)
16 サービス(金融) ←国民の郵政の貯金も何兆円単位で米国にむしり取られる。東京三菱UFJ、大和証券、野村證券社員等の平均年収300万円時代へ。
17 サービス(e-commerce)
18 投資 ←日本企業が容易に外資に買収される。日本人社員総奴隷へ。
19 環境
20 労働 ←日本の医師免許がなくても医師活動が出来る。全ての分野の今の日本人の仕事を奪われる。上司が外国人、部下が日本人が急増
21 制度的事項 ←米国の有利なルールへ変更。公務員の年収も減少へ。国民の収入が減るので観光業も大打撃。
22 紛争解決
23 協力
24 横断的事項特別部会(中小企業,競争,開発,規制関連協力)
構図「製造業vs.農業」の目くらまし効果。 問題は「24分の2」に矮小化、
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110303/218708/
*GDP比で日本と米国で9割以上の取引になる。よって実際には日米の2国間条約。
まさしく「不平等条約締結」による経済侵略。です。
1945年8月、旧ソ連の侵攻により起こったことを参考リンクします。(→「ねずきちの ひとりごと」へ)
裏磐梯と軽便鉄道、そして復興 [鐡道旅行]
9月下旬、子供の運動会が行われ振替休日となった平日、自分も休みを取得し、家族4人と福島県の裏磐梯へ出掛けてきました。今から20年前、高校の陸上部の合宿で毎年走っていた猪苗代湖畔から五色沼への道(往復30kmの道を、高校では通称「五色沼ロード」と呼んでいました)を、今回は車で登って来ました。
ところで、陸上部の合宿で使用していたグランドから数キロ離れた所に、軽便鉄道と国鉄が接続していた磐越西線の川桁駅があります。
鉱山から国鉄の駅まで硫黄を運ぶことを主目的においたこの軽便鉄道は、国の主要なエネルギー源が石炭から石油に変換し、原油から石油を精製する過程で得られる安価な硫黄が流通することによって、採算を得ることが困難となり、紆余曲折を経て、40年前以上に廃止になりました。
10年ほど前の学生時代、野宿しながら東京-新潟-福島-東京の経路を一周する自転車旅行に出かけていた時に通り過ぎた川桁駅には、軽便鉄道が走っていたことを示す痕跡を見つけることはできませんでした。しかし、先日訪れた時は、駅の前に写真のような立派な記念碑が建てられていました。
川桁駅の待合室で昼食を取った後、通称「五色沼ロード」を車で登り、沼の一つである毘沙門池では、家族をボートに乗せ、水の上を漕いできました。まるで絵にかいたような平和な一日を終え、裏磐梯のホテルに一泊しました。
今から100年以上前、1888年に磐梯山が噴火し、山体が崩壊し、裏磐梯に位置する村が全滅しました。土砂や岩石によって川は堰き止められ、一帯は荒地となったようです。その際、堰き止められた川によって、現在の五色沼や桧原湖の原型が作られました。
その荒涼とした土地を蘇らせようと、20世紀初頭当時開通したばかりの磐越西線を使って新潟から猪苗代駅まで鉄道を利用し、猪苗代駅から裏磐梯までは未整備だった道路を馬車を使って、10万本の苗木を輸送し、荒地に苗木を植え、裏磐梯一体の緑化を試み、そして成功した人がいます。会津出身の「遠藤現夢」という方です。(詳細参考wikipedia→「遠藤現夢」)
今となっては、言うまでもなく裏磐梯一帯は深い緑と湖に囲まれた一大リゾートとなっています。多くの人が観光やスキーに訪れ、自分自身も陸上部の合宿で周囲を走ったり、スキーをする為に度々訪れていました。その深い裏磐梯の森林の中、五色沼の自然探勝ルートから数100メートル外れたところに、遠藤現夢の御墓が建立されています。
観光のメインルートから外れているため、訪れる人はほとんどいないように見えます。
今年3月の東日本大震災、そして福島第一原発の放射性物質の拡散によって、福島の中は大変な状況になっています。自分が宿泊したホテルにも、原発事故から避難している方々が、事故発生から半年以上も経つにも関わらず、数10人滞在していました。
子供二人と妻を連れて、メインルートから外れたこのお墓をお参りしてきました。手を合わせながら、福島の土地が再び蘇るための様々な努力を見守ってください、と妻、子供共々お祈りしてきました。
裏磐梯から自宅のある筑波へ帰る途中、磐梯山を正面に望む高原に立地された風力発電所を見学してきました。
福島県郡山市に位置する最大約6万kWの出力を持つ電源開発株式会社の風力発電所です。数十キロ離れた磐梯山の麓からも、この風力発電所に立てられた数十基の風車を見ることができます。この地は、恒常的に風が吹いている為、風力発電には適した土地であるようです。(参考wikipedia→「布引高原」)
風車の高さは、風車の羽根を合わせると約100mあります、このような風車が33基も聳え立つ光景は、まさにヒューマンスケールを超えており、初めて見る壮大さに圧倒されてしまいました。そして、これらの風車が、100年以上に噴火した磐梯山と対峙して立っているかのように見えました。
しかし、33基もの風車を抱えながらも、最大出力が40年前に作られた福島原発1号機の約10分の1、最新型の原発(新潟刈羽原発など)の約20分の1程度の出力しかない事実も、理解しなければなりません。
大震災後の事故のように、ヒューマンスケールを超える被害を事故によって生み出す可能性のある原発を、全て風力発電のような再生可能エネルギーに取り替えると、おそらく日本のほとんどの山が、ヒューマンスケールを超えた風力発電所になってしまうのではないか?
(原発1基分の出力=風車33基×10=風車330基、全国にある原子炉約50基分では、330基×50=16500基。 かつ、不規則な風による発電によって、定常的に安定な電力供給を実現しようとすると、更に数倍必要。)
ヒューマンスケールを超えた規模の33基の風車が立ち並ぶ光景を見ながら、原子炉一基だけでヒューマンスケールを超える電力を生み出す原発全てを、どのような手段で代替することが可能なのかどうか?
約100年以上前に噴火した磐梯山と、おそらく広大な荒地を見て立ちすくんだに違いない当時の人々、そして、荒地を緑の土地へ変えてきた人々の功績を思いながら、子供達と一緒に風車を見ていました。
山梨の御坂峠にある石碑には、「富士には 月見草が よく似合ふ」と刻まれています。小さな月見草が懐大きい富士山と堂々と相対峙している情景を詠ったものだと、高校の時の授業に習ったような気がします。
裏磐梯の遠藤現夢の石碑には、以下の句がありました。
「ながきよに みじかきいのち五十年 ふんかおもへば 夢の世の中」
危機に瀕する日本: 日韓紛争概説 文化略奪と歴史歪曲に関する一考察 → 有志の方々(日本の思いを世界に届ける動画を多言語で制作するWJFプロジェクト)が作成されたプレゼン資料です。youtubeにてご覧できます。
鉄道防雪林の中で、日本人の誇りを見る [鐡道旅行]
子供の頃読んでいた鉄道図鑑(おそらく小学館か学研の図鑑シリーズ)の中に、災害から鉄道線路を守る様々な設備が紹介されているページがあり、雪崩除けや落石覆いの写真や絵が、解説と共に掲載されていました。
その図鑑の中に、当時東京に住んでいた自分にとっては馴染みの薄い「防雪林」なる森林が、東北の鉄道沿いには設けられており、野辺地という駅では、その防雪林を見ることができる、という記事を朧気に覚え続けていたのですが、その野辺地を初めて通過することができたのは、大学1年生になって、塾講師のアルバイトをして貯めた旅費で、ようやく人並みに一人旅ができるようになってからでした。
しかし、その時は駅のホームに降りることはなく、停車した車窓の向こう側に、「野辺地」という駅名標と、駅の向こうに拡がる「防雪林」を眺めただけでした。
先月のある日、東日本パスを利用して、東北地方では青森県では未乗のままであった大湊線を乗る為に、初めて野辺地に降り立ちました。
夕刻までに青森駅に到着すれば良いと考えてた無計画かつ時刻表のないの旅の為、野辺地駅では1時間近く(それでもローカル線の接続としては良い方ですが)の余裕ができ、図らずも、途中下車して、駅本屋の反対側に拡がる「防雪林」の中まで足を運ぶこととしました。
林のある方向を頼りに、駅から離れた踏切を通り、JRの設備事務所の脇を通ると、林というより、鬱蒼とした森が拡がっていました。
駅のホームから視認できる大きさの石碑が幾つか置かれているのは判っていたのですが、今回林の中を抜けて、解説文が掲げてあるところまで移動してみました。
石碑は2つあり、一つは昭和35年の鉄道記念日に、当時の十河信二国鉄総裁の筆によって置かれたもの、もうひとつは昭和15年に、「防雪林」を提唱した本多静六帝大教授の筆によって置かれたものでした。本多博士は、既に東京での日常生活に溶け込んでいる日比谷公園や明治神宮の設計を担当された方です。
昨年12月の東北新幹線全通により、東北本線は第三セクター化されましたが、しかし、今でも「元東北本線」は、関東と北海道を結ぶ貨物の大動脈であることには変わりはありません。
鉄道の保線や防災技術が進歩した21世紀においても、先人の方々が提唱して、設計し植林した森を、100年以上に渡り維持、管理していることに、改めて、現場の方々の苦労を垣間見たような気がしました。そして、それは「日本人」として、誇りに思うことだと思いました。
先の大震災で、数百キロにわたり罹災した東北新幹線を、僅か49日で復旧させた技術者の方々のように。
地吹雪という自然現象から鉄道を守る。地震による津波や崩壊から鉄道を再興する。将来の日本のことを思って行動し、仕事された方々を、改めて敬い誇りに思います。
自分の家族や両親、将来の日本の国や平和な世界を、おそらく思いながら戦火の中で亡くなられた人々の、直系の子孫である今の日本人は、おそらくこのお盆の期間や終戦記念日を、日常生活の中では忘れがちではあるものの、少なくともこの期間だけは、亡くなられた方々を少しでも敬い誇りに思っていることを思い出そうとするような伝統行事として、心の中で設定しているのではないかと思います。
自分の祖父が、もしベトナムから無事に復員してこなければ、自分の父親、ひいては自分は、存在しませんでした。その祖父と一緒に行動を共にされた戦友の方々の中には、日本に帰ってくることが叶わなかった方々が多く存在するに違いない。祖父とその戦友が一緒に戦って守ろうとした日本に、21世紀の今、住んでいる自分は、少なくとも今日くらいは、またはお盆の期間くらいは、その方々に思いを馳せるように、気持ちが切り替わるように、今心のスイッチが切り替わるようになっています。
一方、身内の方々や親戚、祖父、友人の方々などが靖国に祀られているに違いない内閣閣僚として国の中枢の立場にいる人々は、同時に選挙を通じて、国民の負託を受けた国を背負う立場であるにも関わらず、今日の終戦記念日、その当時、国を支えていた諸先輩方を参拝をすることなく、一日を終えたようです。(関連 「韓国人 献金 菅」で→ ググる)
時事通信(8/15)→リンク
アジアの国々への配慮、とマスコミは解説するようですが、ここでいうアジアは、「中国」、「韓国」、「北朝鮮」の3国(いわゆる、特定アジア)のことを指しているのは自明です。明確に識別しなければならないと思います。
靖国神社を参拝した各国の軍人→外部リンク
「特定アジア 櫻井よし子」で→ググる。
→「あなたのおっしゃるアジアってどこの国のことかしら?」 と中国、韓国人に説教した時の映像(youtube)。
日常の仕事において、または、例えば現在の復興事業において、または、他国の侵略から国や故郷を守るという行いの中で、家族や地域、故郷や国のことを考えて倒れていった方々に敬意を表するということは、当たり前の事ではないかと思うし、そのように思う気持ちを育むことが、家庭や地域、学校の教育の中で、ふつうに行われることが、物書き算盤と同じくらい重要なことだと思うのですが、
様々な理屈を並べ立てて、それが出来ない人々もおり、そのような人々が日本の代表となってしまっている現状、一体自分には何ができるのか、最低限、自分の身の回りだけは、綺麗に生活をしていきたいと思う今日この頃です。